フェルメールの楽器、フェルメールの音 [音楽]
タイトルに釣られました。
音楽の本でした♪ヾ( ̄ー ̄)ゞ
著者の梅津時比古さんは毎日新聞の記者から桐朋学園大学の学長になられた方。
毎日新聞連載のコラムを書籍化したもの。
クラシック音楽をメインとしつつもさまざまなジャンルを。
また、音楽との関連で、詩、文学、絵画等たくさん取り上げられている。
とてもきれいな文章と表現、ときに詩を読んでいるかのよう。
眼差しはとても温かく優しいのだが、
「死」「孤独」「悲しみ」といったものを明示又は暗示しており、悲哀に満ちている。
温かい中にも、なにかひんやりとしたものがあり、
人生のはかなさ、切なさを感じる。
絵画や文学とは異なり、音楽というものがその場限りのものであり、
その瞬間、その場の雰囲気、空気感をも含むものであることを、あらためて感じることができる。
美しくも哀しいとはこのことかと。
シリーズ全体を通してシューベルトに言及したものが多く、
特に歌曲集「冬の旅」「美しき水車小屋の娘」は度々取り上げられていた。
シューベルトの伝記を読んだことはあるが、シューベルトは普段ほとんど聴かない。
とても興味深く魅力的だったので、今度聴いてみようと思う。
最初に手にしたのは「フェルメールの楽器 音楽の新しい聴き方」という本。面白くて、同じくタイトルにフェルメールと入っている「フェルメールの音 音楽の彼方にあるものに」も読んだ。
もはやフェルメールというタイトルはどうでもよくなり、新しいものも古いものも読み漁った。
エッセーに魅了された。
★。、:*:。.:*:・'゜☆。.:*:・'゜★。、:*:。.:*:・'゜☆。.:*:・'゜★。、:*:。.:*:・'゜
「音のかなたへ」「コンサートを読む」の二部構成。
「音のかなたへ」は見開き2ページ、「コンサートを読むは3ページ」のエッセー。
「『音のかなたへ』は、コラム名はいくつか変わったものの、これまでも単行本に収録されており、今回で六冊目になる。
『コンサートを読む』のほうは、初めてまとめられた。
両者とも基本的にはエッセーだが、『コンサートを読む』は、『音のかなたへ』に比べると、より批評に近づいた形となっている。
ややもすると、高みに立って演奏家や曲に裁断を下すことになりがちなコンサート評という形式に、幾分かの違和感を抱き続け、あまり手を染めなかった。
二〇〇三年春の紙面改革の際、長めの音楽批評の提案を受け、対象のコンサートに関してまんべんなく評価を述べるのではなく、私が大きな刺激を受けた一点に集中してその受け取ったものを書くという形式を考えた。(P292 『おわりに』より)」
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毎日新聞夕刊のコラム「クラシックふぁんたじい」をまとめたもの。
1997年1月から2001年10月までに連載された103回のうち100回分。
見開き2ページでの完結。
「フェルメールの音」というタイトルで《リュートを調弦する女》(メトロポリタン美術館蔵)に始まり、
「流れる音楽」というタイトルで《青いターバンの少女》(マウリッツハイス美術館蔵)で終わる。
「 音楽から得る感動が、少しずつ自分のなかから逃げていくことは、避けられないような気がする。その拡散の仕方が、音楽は、美術や文学と少し異なるだろう。音は一回限りのもので、絵や彫刻、文章のように、ためすがめつ、繰り返し味わうことが出来にくいし、もともと形の無いものだけに、初めからつかまえにくいものであるから。
その逃げていくものを、少しでもすくいとって、そこに戻れば再び音が立ち昇ってくる瞬間に立ち会えるような時間がほしい-。そのような、もともと叶わぬ思いの下に、本書に集めた文章は書かれている。
それらのことは、聴くということが、伝え手から聴取する側に一方向のベクトルとして流れるのではなく、聴く側からも創作的な要素によって逆方向のベクトルを形作っている、ということを示しているのだろう。(P244 『あとがき』より)」
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音楽の本でした♪ヾ( ̄ー ̄)ゞ
著者の梅津時比古さんは毎日新聞の記者から桐朋学園大学の学長になられた方。
毎日新聞連載のコラムを書籍化したもの。
クラシック音楽をメインとしつつもさまざまなジャンルを。
また、音楽との関連で、詩、文学、絵画等たくさん取り上げられている。
とてもきれいな文章と表現、ときに詩を読んでいるかのよう。
眼差しはとても温かく優しいのだが、
「死」「孤独」「悲しみ」といったものを明示又は暗示しており、悲哀に満ちている。
温かい中にも、なにかひんやりとしたものがあり、
人生のはかなさ、切なさを感じる。
絵画や文学とは異なり、音楽というものがその場限りのものであり、
その瞬間、その場の雰囲気、空気感をも含むものであることを、あらためて感じることができる。
美しくも哀しいとはこのことかと。
シリーズ全体を通してシューベルトに言及したものが多く、
特に歌曲集「冬の旅」「美しき水車小屋の娘」は度々取り上げられていた。
シューベルトの伝記を読んだことはあるが、シューベルトは普段ほとんど聴かない。
とても興味深く魅力的だったので、今度聴いてみようと思う。
最初に手にしたのは「フェルメールの楽器 音楽の新しい聴き方」という本。面白くて、同じくタイトルにフェルメールと入っている「フェルメールの音 音楽の彼方にあるものに」も読んだ。
もはやフェルメールというタイトルはどうでもよくなり、新しいものも古いものも読み漁った。
エッセーに魅了された。
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「音のかなたへ」「コンサートを読む」の二部構成。
「音のかなたへ」は見開き2ページ、「コンサートを読むは3ページ」のエッセー。
「『音のかなたへ』は、コラム名はいくつか変わったものの、これまでも単行本に収録されており、今回で六冊目になる。
『コンサートを読む』のほうは、初めてまとめられた。
両者とも基本的にはエッセーだが、『コンサートを読む』は、『音のかなたへ』に比べると、より批評に近づいた形となっている。
ややもすると、高みに立って演奏家や曲に裁断を下すことになりがちなコンサート評という形式に、幾分かの違和感を抱き続け、あまり手を染めなかった。
二〇〇三年春の紙面改革の際、長めの音楽批評の提案を受け、対象のコンサートに関してまんべんなく評価を述べるのではなく、私が大きな刺激を受けた一点に集中してその受け取ったものを書くという形式を考えた。(P292 『おわりに』より)」
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毎日新聞夕刊のコラム「クラシックふぁんたじい」をまとめたもの。
1997年1月から2001年10月までに連載された103回のうち100回分。
見開き2ページでの完結。
「フェルメールの音」というタイトルで《リュートを調弦する女》(メトロポリタン美術館蔵)に始まり、
「流れる音楽」というタイトルで《青いターバンの少女》(マウリッツハイス美術館蔵)で終わる。
「 音楽から得る感動が、少しずつ自分のなかから逃げていくことは、避けられないような気がする。その拡散の仕方が、音楽は、美術や文学と少し異なるだろう。音は一回限りのもので、絵や彫刻、文章のように、ためすがめつ、繰り返し味わうことが出来にくいし、もともと形の無いものだけに、初めからつかまえにくいものであるから。
その逃げていくものを、少しでもすくいとって、そこに戻れば再び音が立ち昇ってくる瞬間に立ち会えるような時間がほしい-。そのような、もともと叶わぬ思いの下に、本書に集めた文章は書かれている。
それらのことは、聴くということが、伝え手から聴取する側に一方向のベクトルとして流れるのではなく、聴く側からも創作的な要素によって逆方向のベクトルを形作っている、ということを示しているのだろう。(P244 『あとがき』より)」
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